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ロシア農奴芸術を培った オスタンキノ宮殿

華麗なシェレメチェフ伯爵家  

 モスクワ市の北部に位置するオスタンキノ宮殿は、帝政時代の名門貴族シェレメチェフ伯爵の館であった。

 1743年、チェルカスキー大公の王女と結婚したシェレメチェフ伯爵は、王女の持参金であるモスクワのオスタンキノの領地を手に入れた。

 ピョートル大帝に仕えていたシェレメチェフ伯爵は、戦場では、重ねて斥候を放ち敵を偵察し、勝算を見極めて戦うという慎重な性格。 その腰の重さをピョートル大帝は幾度となく叱咤したという。しかし、兵力を損なうことのないよう努めた指揮官として、 配下の将兵から信頼され慕われていた。

 妻が持参金としてシェレメチェフ家にもたらした領地だが、伯爵夫妻はモスクワ郊外のクスコヴォに住むことを好み、 オスタンキノの領地はそのまま放置されていた。ここに宮殿を建設したのは、次代のニコライ・ペトローヴィッチ・シェレメチェフ伯爵である。

 

ロシア・ルネサンスの風 

 ニコライ・シェレメチェフ伯爵は、バレエや芝居が好きで、自分の農奴たちで編成した劇団を持っていた。 そしてこの劇団が芝居をするための私設の劇場を、両親から引き継いだオスタンキノの領地に建てることを決めた。  

 当時のロシアでは、国都と定めたサンクトペテルブルクの早急な街造りが第一の国策であったため、 サンクトペテルブルク以外で石造りの屋敷を建てることは禁じられていた。そのため伯爵は、宮殿をすべて木造で、 しかも石造りであるかのように建設した。鉄製に見える塀の柵まで、木で巧みに造られている。現在公開されている「イタリアの間」の床や壁、 柱などは、一見、大理石かと思えるが、よく見るとすべて木造である。

 オスタンキノ宮殿はV・ ブレン、I・ スタロフなどのロシアの建築家が構想を練り、シェレメチェフ家の農奴のA・ ミローノフとP・アルグーノフが設計、建設を実施指揮した。設計者のミローノフとアルグーノフは、 農奴であったが独学で建築を修得し、ロシア建築史に名を残した。

 あらゆる建築関連の技術、インテリア、家具、装飾品にいたるまで、農奴たちが積極的に建設に参加し、創造性を駆使して、 新しい技術が考案された。彼らは精神的な解放感を得て、ある種のロシア・ルネサンスの風がここに生まれたようだ。

 18世紀のロシアは、 フランスの影響を受けた貴族たちが西欧の文明に憧れ、啓蒙主義を信奉した時代である。科学の研究や芸術に親しみ、 それを自らの邸宅で実践することが、貴族の使命だと考えられていたのである。オスタンキノ宮殿は、 このような当時の考え方を実践した好例の一つとされている。

 

農奴芸術の粋」オスタンキノ宮殿

 

 宮殿建設は1792年〜98年まで続いた。建物は木造でありながら、表面の特殊な加工によって石造りと思わせるようなユニークなもの。 中央棟の両翼を「イタリアの間」と「エジプトの間」が囲んでいる。中央棟の劇場は、250人の観客を収容でき、 舞台は幅17m、 奥行き22m。 当時のヨーロッパの劇場建築の例にならい最高の舞台が建築され、音響効果、 舞台効果などにも当時の最高の技術が用いられている。

 ニコライ・シェレメチェフ伯爵は、自らの農奴や、その子どもたちにバレエやオペラなどを教え、 バレエ団・歌劇団まで編成した。宮殿に造られた劇場にはバレエ、オペラの踊り手や歌手、スタッフ等、 常時100人を超える農奴が携わっていた。当然、ゲストにも著名な音楽家や芸術家、文化人そして貴族たちが集った。

 1795年7月22日に宮殿の劇場のこけら落としが行われ、 『ゼリメラとスメロン、またはイスマイルの奪取』という叙情的なドラマが演じられた。 役者はもちろんシェレメチェフ家の農奴役者たち。主役のトルコ女性ゼリメラの役を演じたのはプラスコーヴィヤ・ コヴァリョーヴァ。後にニコライに見初められ、シェレメチェフ伯爵夫人となった女性である。観劇のあとでは翼部の 「エジプトの間」で晩餐会が催された。

 音楽会、舞踏会など、オスタンキノ宮殿では際立って華やいだ爛熟した絵巻物のような世界が繰り広げられていた。

 1797年に行われた舞台は、皇帝パーヴェル一世も鑑賞した。ユニークな私設劇場は、皇帝所有の劇場と競うほどであったが、 1801年の舞台が最後となった。シェレメチェフ伯爵の死により、農奴劇団は解散し、劇場としての役割を終了した。

 

「農奴芸術博物館」として公開 

 農奴の出身でありながら、美貌と美声、才能に恵まれた女優P・コヴァリョーヴァは、ニコライ・シェレメチェフ伯爵と恋に落ち、 密かにサンクトペテルブルクで結婚をする。しかし美人薄命、若くして他界。伯爵の遺児を同じ農奴の出身であるタキヤーナ・ シュリコーヴァに託した。聡明なシュリコーヴァは、仕えた当主に少なからぬ影響を与え、生涯家族同様の存在として大切にされた。

 農奴と結婚するだけでも大きな批判を受けた時代に、 世嗣ぎの教育までも農奴に任せるというシェレメチェフ伯爵家の開明的な一面がうかがえる。

 余談だが何世代後には、病院を創設するなど、文化的事業に力を注いだ一族は、ソビエト政権が樹立されると、早々と宮殿を明け渡した。 豪華絢爛な宮殿は保存され、「農奴芸術博物館」として公開されている。

 

クスコヴォとサンクトペテルブルクのシェレメチェフ宮殿 

 モスクワの東南約12kmのクスコヴォにシェレメチェフ家の夏の宮殿と広大な庭園がある。 華やかで贅を尽くした宮殿と庭園は、北のヴェルサイユと呼ばれていた。

 また、サンクトペテルブルクのフォンタンカ運河に面した一等地にもシェレメチェフ家の宮殿がある。現在、宮殿の一部が「楽器博物館」 となっている。