エカテリーナ宮殿の成り立ち
この地域は18世紀までスウェーデン人の居留地であったが、 スウェーデンとの戦いで勝利したピョートル大帝の手に渡り、大帝は当初、寵臣メンシコフ伯爵に与えたが、 エカテリーナ1世が正式に皇后として即位したときに、ここに宮殿を建設し贈り、エカテリーナ宮殿と呼ばれる公邸となった。
その後、 エカテリーナ1世の遺言により、この宮殿は娘のエリザヴェータに譲られた。エリザヴェータは女帝即位の後、 建築家ラストレッリに命じて質素だった宮殿を豪華で美しいバロック様式の宮殿に造り変えた。
30余年に渡ってロシアを統治し、
ロマノフ朝を繁栄に導いたエカテリーナ2世は、この夏の宮殿がお気に
入りで、
多忙な政務をこなしながら「琥珀の間」を完成させ、また、庭園造りにも力を入れた。
宮殿の南側に広がる幾何学模様の庭園はラストレッリによるフランス式庭園。 エカテリーナ2世は、自然を生かしたイギリス式庭園が好みで、大池の周囲に自然と溶け込むように「トルコ風浴場」や「中国風東屋」 を配し、また、建築家キャメロンに命じて、「キャメロンのギャラリー」と呼ばれる古代ギリシャ、 ローマの叙事詩にでてくるような建物も造らせた。
宮殿内部の造作は、 エリザヴェータ好みのバロック様式の華麗さにエカテリーナ2世好みの古典主義様式の優美さが備わり、 帝国最盛期の威厳がにじみ出ている。なかでも2003年に復元が完成した「琥珀の間」は、ロシアの秘宝として内外に知られている。
おろしや国酔夢譚
日本人漂民の大黒屋光太夫がシベリアからロシアを横断してこのエカテリーナ宮殿でエカテリーナ2世に謁見した話はよく知られている。 光太夫はイルクーツクで出会った博物学者キリル・ラックスマンの尽力もあって、 漂流からおよそ10年後に仲間の1人磯吉と共にロシア官船エカテリーナ号で日本に帰国する。 これはペリー来航の50年も前のことである。このときキリル・ラックスマンの息子アダム・ラックスマンが同行し、 日本に対し通商要求をするのだが実らず、これよりおよそ50年後のプチャーチンの来航まで、 日本では対ロシア交易の準備はなにもしなかったも同然といえる。
光太夫を用いて日本とロシアの交易が始まっていたなら、 状況はどんなに変わっていただろうか。一方、エカテリーナ2世は、 将来の対日貿易のために日本語学校を充実させるという政策を進めている。しかし、 当時ロシアの目の前にはヨーロッパ諸国の動静が激しく、ロシアにおける日本の存在は薄れていった。
日本人にとってエカテリーナ宮殿は、大黒屋光太夫を思い、 歴史を振り返る感慨深い場所でもある。



