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ロシア極東の街 ウラジオストク

変貌する極東ロシア

 

 ロシアの極東に位置し、 モスクワとウラジオストクを結ぶシベリア鉄道の発着駅であるウラジオストクは、明治の時代から日本との関わりも深い。新潟市、秋田市、 函館市とは姉妹都市である。

 このウラジオストクは、 2012年9月のAPEC首脳会議を前に大改造が行われている。空港も一新され、空港と市内を結ぶ高速自動車道路や市内道路、 ホテル建造などのインフラ整備が現在進んでいる。

 2012年5月に大統領に返り咲いたプーチン大統領は極東開発に力を入れる姿勢を明白にした。

 

 今回の大改造プロジェクトの中で特に注目されるのが、 極東国立大学の新キャンパスとAPEC会場となるルースキー島、そしてルースキー島と市内を結ぶ連絡橋である。 APEC終了後の会場は、ウラジオストクの4つの大学を統合した極東国立大学の新たなキャンパスとなる予定。 将来的には世界各地から優秀な頭脳が集まる国際大学を目標としているという。

 

 また、 ウラジオストクの対岸となるルースキー島と市内を結ぶ2本の橋も7月に開通した。 1本目の金角湾大橋は海に面してコの字型に広がるウラジオストク市の内湾を、街の上にのしかかるように跨いで架けられている。

 2本目の東ボスポラス海峡大橋は本土とルースキー島を結ぶ連絡橋となる。 2本の主塔から張ったケーブルで橋桁を支えるユニークな斜張橋で、完成後は世界最長の斜張橋となる。

 

 

 

 

ウラジオストクの歴史と概要

 

 ウラジオストクのある沿海州は、かつては中国の領土で、渤海や契丹、 金などがここを支配していた。

 1858年、 アレクサンドル二世と清の文宗との間でアイグン条約(ウスリー江の東をロシアと清の共同管理地とする)が締結され、また、 1860年には北京条約(沿海州をロシア領とする)が締結されて、ロシアの領土となった。

 

 ロシアがウラジオストクの街建設を始めた頃、 日本は幕末から明治への移行期であり、中国では英仏連合軍が北京を占領という動乱の時代の始まりであった。

 ウラジオストクというのはロシア語では「東方を征服せよ」という意味である。 ロシアは文字通りここにロシア海軍の軍港を築いた。

 

 1891年訪日後の皇太子ニコライが帰途ウラジオストクに立ち寄りシベリア鉄道の起工式が行われる。

 その後、 ロシア革命など、激動の時代を経て、1932年には、ソ連太平洋艦隊の基地となり、第二次大戦後は、 軍港であると同時に工業都市としても規模を拡大し、現在のウラジオストク市内の姿が形作られた。 ソ連時代は軍港として立入りを制限されていたが、1990年代に再び自由に訪問できる都市となり、 海外からの大型客船も寄航する国際港になった。現在、日本からは飛行機で約2時間という距離。 港を望む異国情緒ある極東の街を訪れる観光客も増えている。

 

 

 

 

ウラジオストク散策

 

 ウラジオストクは坂の多い街だ。 起伏の多い街のあちこちから海を望むことができる。

街の中心部には19世紀末から20世紀初頭にかけて外国商人によって建設されたアールデコ調の洋館が多く残され、 当時の雰囲気がうかがえる。

 

 ヨーロッパの雰囲気を持った極東の街である。 街の散策は駅前広場からメインストリートのスヴェトランスカヤ通りを歩き、アルセーニエフ博物館、要塞博物館、 潜水艦C-56博物館、ニコライ二世凱旋門などが主な見どころだ。

 

 ショッピングや観光、商売などのために、 ウラジオストクから中国や韓国などに気軽に訪れる人も多いせいか、住民の気質もなんとなく開放的である。

 

 

極東連邦大学

 

 1899年にロシア極東最初の高等教育機関として極東連邦大学の前身が誕生した。 1920年に極東国立大学に再編され、ウラジオストク随一の総合大学となった。2010年には、 ロシアの8つの連邦管区に設置する連邦的意義をもつ国立大学「連邦大学」として、ウラジオストクの3つの大学、国立極東技術大学、 国立太平洋経済大学、国立ウスリー教育大学を吸収して極東連邦大学として生まれ変わった。

 

 現在の学生総数は6万3000人。エンジニア、生物医学、人文、自然科学、 芸術文化体育、教育学、地域国際研究、経済経営、法学の9つの学部のほかに、ナホトカやユージノサハリンスクそのほかの極東都市、 そして日本の「ロシア極東連邦総合大学函館校」を含む10支部を含んでいる。

 

 APEC開催後にはルースキー島のAPEC会場が大学の新キャンパスに変貌し、 現在市内に散在する大学施設がすべて新キャンパスに移動する。ルースキー島の総敷地面積は80万平方メートル。新キャンパスは、 アヤクス湾に沿って11の校舎が弓形に広がり、どの校舎からも前面に海が広がる。 

 キャンパスの広さでは、 日本の筑波大学の260万平方メートルには及ばないが、一箇所に集中したロシアの大学キャンパスとしては最大の規模となる。 ウラジオストクを極東の学術と教育の中心にしようとするロシアの意気込みが感じられる。

 

 

地域国際研究学部

 

 極東連邦大学の9つの学部のうちの一つ地域国際研究学部の目的は、 ロシア極東を中心に世界との交流と研究の人材を養成することである。英仏独語のほか、中国語、日本語、韓国・ 朝鮮語の専門科を擁している。そもそも極東連邦大学は、東洋の言語のエキスパートを養成するための東洋学院として始まったもので、 今日までロシア有数の東洋の言語の優秀な人材を輩出してきた。現在でもこの地域国際研究学部の存在意義は非常に大きい。

 

 現在の学部生は約3000名、講師は800名ほど。日本語、中国語、 韓国語をメインに、ベトナム、インドネシア、インド、タイなどの専攻クラスも設置されている。

 

 このたび沿海州知事に抜擢されたウラジーミル・ ミクルシェフスキー氏の依頼を受け、昨年から地域国際研究学部長に就任したウラジーミル・クズネツォフ(1954年ソチ生まれ)は、 沿海州の元知事で、サンフランシスコ領事などの要職を歴任してきた実力派。サンフランシスコに20年間住み、 現在も当地に家を構えるという国際人だ。ウラジオストクが外国人に門戸を開放し自由都市になったときに、 沿海州の州知事を務めていたという歴史的瞬間の証人でもある。

 

 教育は今後ウラジオストクの経済の要になるだろうと言われている。 クズネツォフ氏が学部長に選ばれたのも在米20年という国際人としての経営感覚を期待されているからだろう。

 「私たちは、 学生がロシアのあらゆる地域から集まる最高の人材であってほしいと考えています。学ぶ動機をしっかり持ち、教養を持ち、 目標に向かって努力する人材を求めています。このため大学では、 例えば入学の決まった学生にはロシア各地からの旅費負担なども実施しています」とクズネツォフ氏は言う。

 

 昨年は、 ロシアの83州のうちの38州から学生を集めた。今年はもっと多くの地域からの学生が集まるだろう。 そして彼らの多くはここに残り沿海州とウラジオストクを変えていくはずだ。

 学生はロシア人ばかりではない。 地域国際研究学部にはロシア文化コースもあり、中国やアメリカなど約1000人の外国人も学んでいる。

 

 「ミクルシェフスキー前学長も沿海州の州知事になりました。 とても良いことです。州政府は大学の発展のために尽力する用意があるからです。 極東連邦大学は沿岸州発展の名実共にリーダーとなるはずです。私自身も、 この学部長就任への要請はまったく予期せぬものでしたが、ミクルシェフスキー氏に会ってみて、 この仕事にやりがいを感じたのです。

 

 ウラジオストクは19世紀後半にロシアの皇帝によって《アジアへの窓口》 として建設された街です。その後、革命があり、軍港となり、長い間、いわば《閉ざされた窓》だったのです。

 

 1992年に、世界に向かって開かれるという二度目のチャンスが訪れました。 自由港になり、領事館が設けられ、外国の航空会社が乗り入れ、多くの観光客が訪れ、多くの市民も海外に自由に出るようになりました。 しかし、それからまた経済危機に見舞われて、ウラジオストクは持てる可能性を未だ発揮していません。 現在が世界に向かって開かれる三度目の試みです。

 ロシアでは 《神は三つ組みを好む(三度目は上手くいくという意味)》と言いますから」

 

 クズネツォフ氏は三度目のウラジオストクの発展に大学が果たす役割を確信している。